東京都港区の南青山は、世界のハイブランドの旗艦店や骨董通り、洗練されたカフェが並ぶ、憧れの高級エリアとして知られています。一方で、街の中心近くには広大な青山霊園が横たわり、他の高級住宅街とは一線を画す独特の余白を持っています。本記事では、大名家の下屋敷から公営墓地、そして骨董通りを経てブランドストリートへという土地利用の変遷を、歴史と地形の視点から整理し、「稀立地」を扱うタカマツハウスの目線でその背景を読み解きます。
徳川家重臣・青山忠成の拝領地から始まった「青山」の地名

「南青山」という地名は、一人の武将の名前をルーツに持っています。この見出しでは、地名の由来と、江戸時代の青山一帯がどのような土地だったのかを見ていきます。
徳川家重臣・青山忠成に賜与された広大な拝領地
青山という地名は、天正18年(1590)に徳川家康からこの地を与えられた重臣・青山忠成に始まります。青山家はその後、丹波篠山藩や美濃郡上藩の藩主家として続いていきました¹⁾。
現在の青山通り(国道246号)は、江戸時代には赤坂見附から青山を通り渋谷へ抜ける道として使われ、古くは「厚木街道」、あるいは大山詣でに向かう人々が通った「大山道」と呼ばれており、その両側には青山家の広大な屋敷が広がっていたといわれています²⁾。つまり南青山は、街ができる前から、一つの大名家がまとまった土地を治めていたところから歴史が始まっているのです。
江戸期は町屋の少ない、武家地中心の郊外だった
江戸時代の青山一帯は、庶民の町というよりも武家地が中心の土地でした。青山家の敷地の一部が町となって青山浅河町などの「青山」を冠する町名がつけられ、その後も青山御手大工町など、「青山」を冠する町が増えていきました。しかし、これらの町名がついたのは江戸時代に入ってからのことで、それ以前の記録は残っておらず、周辺の集落にも「青山」という名前は見当たりません¹⁾。
広域の地名として「青山」が定着したのは、明治以降のこととされています¹⁾。江戸の中心部からやや外れた郊外にありながら、一つの大名家の屋敷が広がる特殊な土地であったことが、後の南青山の骨格を形づくっていきます。
明治5年、青山霊園という「まとまった低密度用地」の誕生

江戸から明治へと時代が変わると、青山家の屋敷地は思いがけない形で使われることになります。ここでは、南青山を特徴づける青山霊園の誕生の経緯を紹介します。
下屋敷跡地に置かれた日本初の公営墓地
明治5年(1872)、青山一帯では小さな町の統合が行われ、青山北町・青山南町の2つの町に整理されました。このとき、南側の美濃郡上藩・青山家の下屋敷跡には、日本初の神道用公営墓地として青山霊園が開設されました。さらに明治11年(1878)の郡区町村編制法により、青山北町・青山南町は一部を除いて赤坂区に所属することとなりました¹⁾。
面積は約26万平方メートルにおよび、現在は東京都が管理運営しています¹⁾。園内には大久保利通や乃木希典、志賀直哉、尾崎紅葉といった、主に明治期の著名人の墓が数多くあり、忠犬ハチ公もこの地に眠っています¹⁾。その後、昭和41年(1966)の住居表示に関する法律の施行により、この青山南町を中心に、周辺の一部の町をあわせて現在の「南青山」が誕生しました¹⁾。
住宅密集地化を免れたことが、後の街並みを左右した
一つの大名屋敷がそのまま公営墓地という「まとまった土地」に転換されたことは、南青山にとって大きな意味を持ちます。明治以降、多くの旧武家地が細かく分割されて庶民の住宅地に変わっていった中で、青山霊園の一帯は墓地というまとまった用途のまま残り続けました。
街の真ん中に、建物の建たない広い緑地がそのまま維持されたことで、南青山は他の高級住宅街のように隙間なく建物が密集するのではなく、緑地と住宅、そして後の商業エリアがゆとりを持って並ぶ土地の骨格を持つことになったのです。
南青山が「高台」であるという地形の条件
南青山の街並みを語るうえで、地形の条件も欠かせない要素です。ここでは、南青山がどのような地形の上に成り立っているのかを見ていきます。
渋谷・原宿・西麻布方面へ緩やかに下る台地の地形
港区は北西の一帯が高台地、南東が東京湾に面した低地・埋立地という、2つの異なる地形からなる区です。この高台地は、秩父山麓を起点とする武蔵野台地の末端にあたり、小さな丘陵の連なりとなっているため、東京23区の中でも最も起伏に富んだ地形として知られています²⁾。名前のついた坂だけでも80以上あるほどです²⁾。
南青山を含む青山一帯もこの高台地の一部にあり、渋谷や原宿、西麻布の方向へ向かって緩やかに下っていく立地にあるといわれています³⁾。
地盤の安定性と開放感が邸宅街を育てた
台地の上に位置するということは、単に見晴らしが良いという以上の意味を持ちます。低地に比べて地盤が安定しやすく、水害のリスクも相対的に低いことから、古くから住宅地として好まれてきた条件がそろっているのです。
加えて、周辺へ向かって視界が開ける高台特有の開放感は、閑静な邸宅街としての格を後押しする要素になったと考えられます。青山霊園という緑の広がりと、この高台の地形が重なり合うことで、南青山は建物の密度だけでは測れない、独特の「間」を持つ街になっていきました。
骨董通りの誕生とブランドストリートへの変貌

南青山を象徴する通りといえば、骨董通りです。この見出しでは、通りの名前の由来と、骨董店からハイブランドの街へと変わっていった経緯を見ていきます。
骨董通りと古美術文化の広がり
骨董通りは、南青山五丁目交差点から高樹町交差点までを結ぶ通りです。かつては「高樹町通り」と呼ばれ、現在は通称の「骨董通り」が定着しています⁶⁾。根津美術館に近いことなどから戦後に古美術店が集まり、1980年代に古美術鑑定家・中島誠之助氏が名付けたという説が知られています⁹⁾。現在では、高級ブティックやカフェ、レストランなども立ち並び、骨董文化と新しい感性が共存する南青山を代表するストリートとして親しまれています。
根津美術館と南青山の文化
根津美術館は、東武鉄道の社長などを務めた実業家・初代根津嘉一郎が、明治39年(1906)に現在の南青山にあたる青山の地に土地を求めたことに始まり、嘉一郎の没後、昭和16年(1941)に美術館として開館しました⁵⁾。現在も南青山を代表する文化施設の一つとして、多くの人々が訪れています。
骨董店からハイブランド旗艦店へ、通りの主役交代
昭和39年(1964)の東京オリンピックにともなう青山通りの拡幅を機に、青山一帯は再開発が進み、街の姿が大きく変わっていきます。1960年代には、アイビーファッションで知られるブランド「VAN」の創業者・石津謙介が青山に本社を構えました⁶⁾。
その後、1970年代にはNICOLやBIGIといったブランド、1980年代にはコム・デ・ギャルソンやY's(Yohji Yamamoto)といった日本を代表するデザイナーズブランドが相次いで青山に登場し、時代を映す街として注目されていきます⁷⁾。
昭和53年(1978)には、象徴的な青いタイル張りの外観で知られるヨックモック青山本店が南青山に誕生しました⁶⁾。表参道から根津美術館へ向かう途中に位置し、現在も南青山を代表するランドマークの一つとして親しまれています。かつて古美術商が集まっていた通りに、今度は世界のハイブランドの旗艦店が並ぶようになった、この主役交代こそが、南青山を「ファッションの街」として印象づけている大きな理由といえるでしょう。
タカマツハウスは南青山の土地をどう見るか

周辺環境の読み解き方
南青山の決定的な特徴は、表参道や骨董通りに象徴される感度の高い洗練された商業エリアと、そこから一本奥へ入った低層中心の落ち着いた高級住宅地が、美しく同居している点にあります。
麻布・六本木のような繁華性や、赤坂のようなビジネス色とは異なり、徒歩圏内に洗練された商業施設や根津美術館のような文化施設が揃う利便性と、閑静で上品な住環境を併せ持っているのが南青山の特色です。明治39年(1906)創立という長い歴史を持つ港区立青南小学校をはじめとする教育環境の充実も、この街の子育て環境の高さを支える大きな強みとなっています⁸⁾。
こうした環境が重なることで、南青山は経営者や外資系エグゼクティブ、クリエイターといった層はもちろん、教育水準やライフスタイルの質を重視する高感度なファミリー層にも適した街になっています。商業と住宅、賑わいと静けさという、本来なら両立が難しい要素を同じ街の中に持っていることこそが、南青山という土地の稀少性だと私たちは考えています。
不動産価格と、その背景にある要因の捉え方
南青山の土地を評価する際に重視しているのは、表参道駅へのアクセスという利便性を確保しながら、大通りから一本奥に入った第一種低層住居専用地域などの、静謐な高台に立地しているかどうかという点です。駅からの近さだけでは、この街の価値は測れません。むしろ、賑わいのある通りからほど良く距離を置きながらも、生活の利便性を犠牲にしていない立地こそが、南青山らしい高い評価につながっています。
これは、青山霊園という緑の広がりが街の中心近くにありながら、密集した市街地にならなかったという、この土地の成り立ちそのものが今も評価軸として生き続けていることの表れだといえるでしょう。
担当者コメント
「南青山という土地を見るとき、私たちが必ず意識するのは、表参道や骨董通りの賑わいから一本入ったときの『静けさの質』です。青南小学校のような歴史ある学校が近くにあり、青山霊園という広い緑地が街の真ん中近くにある。この街は、便利さと落ち着きのどちらかを選ぶのではなく、両方を持っている稀な土地だと感じています。だからこそ、この土地にふさわしい邸宅空間をどう作れるかを、いつも大切に考えています。」
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南青山から考える「稀立地」という視点
南青山は、大名家の下屋敷という広大な拝領地に始まり、明治には日本初の神道用公営墓地としてまとまった低密度の土地であり続けたという、他の高級住宅街とは異なる成り立ちを持っています。
高台という地形の条件も重なり、密集した住宅地にならなかったからこそ、戦後には骨董通りに象徴されるゆとりある街並みが育ち、店の主役が骨董店からハイブランドへと入れ替わっても、街全体の格は崩れませんでした。何が建っているかだけでなく、土地がどう使われてこなかったかという視点もまた、その街の価値を読み解く鍵になります。

出典・参考元
引用文献
¹⁾ 港区ホームページ「地名の歴史(赤坂地区)」 https://www.city.minato.tokyo.jp/kouhou/kuse/gaiyo/chimerekishi/index-akasaka.html
²⁾ 港区ホームページ「港区の地勢」 https://www.city.minato.tokyo.jp/soumu/kuse/gaiyo/chise.html
³⁾ All About「南青山でこその“迎賓の邸”」
https://allabout.co.jp/gm/gc/427823/2/
⁴⁾ 三菱地所の住まいリレー「骨董通り」
https://www.mec-h.com/town/mh-omotesando/41
⁵⁾ 根津美術館公式サイト「美術館略年表」
https://www.nezu-muse.or.jp/jp/about/history/
⁶⁾ Precious.jp「南青山ってどこにあるの?『場所』と『地図』」 https://precious.jp/articles/-/35766
⁷⁾ ヤマハ発動機「THE AOYAMA」(ショールームコンテンツ) https://global.yamaha-motor.com/jp/showroom/mt/stage/006.html
⁸⁾ 港区立青南小学校(沿革)
https://seinan-es.minato-tky.ed.jp/file/151
⁹⁾ 玉川堂「[第73号]南青山・骨董通りにて玉川堂直営店開業」 https://www.gyokusendo.com/column01_dento/3463
