鎌倉は、歴史的な情緒と豊かな自然を併せ持つ、日本屈指の人気エリアです。観光地としての魅力や格式高い住宅街のイメージは広く知られていますが、なぜこの街が時代を超えて安定した高い価値を保ち続けているのかを説明するのは簡単ではありません。

本記事では、鎌倉の成り立ちを歴史と独特な地形の視点から整理し、「稀立地(まれりっち)」を扱うタカマツハウスの目線でその背景を読み解きます。

幕府が開かれる前、この場所はどんな土地だったのか

鎌倉市由比ヶ浜海岸、材木座海岸の風景

三方を山に囲まれ、海に面した「天然の要塞」という地形

鎌倉の歴史といえば、多くの人が「鎌倉幕府」や源頼朝を思い浮かべるのではないでしょうか。しかし、頼朝がこの地に幕府を開くずっと前から、鎌倉はとてもユニークな「地形」を持っていました。

地図で鎌倉を見てみると、北・東・西の三方がぐるりと険しい山に囲まれていて、南側だけが海(相模湾)に開いていることがわかります。この地形は、敵から攻め込まれにくく、自分たちは海を使って移動しやすいという、軍事的に最高の条件を備えていました。いわば、大自然が作った「天然の要塞(ようさい)」だったのです。頼朝がこの場所を本拠地に選んだのも、この守りやすく強い地形があったからこそと言われています。

谷戸(やと)と呼ばれる独特の地勢と人々の営み

山に囲まれた鎌倉の中に入っていくと、あちこちに細長い谷のような地形が見られます。これは、山が雨水などで長い時間をかけて削られてできたもので、地元では「谷戸(やと)」と呼ばれています。

一見すると平地が少なくて暮らしにくそうに思えますが、昔の人々はこの谷戸をとても上手に活用していました。山に囲まれているため強い風が遮られ、冬でも比較的あたたかいというメリットがあったのです。人々は谷戸の奥に家を建て、お寺を構え、豊かな湧き水を利用して小さな畑を作りました。平坦な広い土地がないからこそ、この奥まった谷戸のなかに、独自のコミュニティと丁寧な暮らしが育まれていったのです。

武家の古都から別荘地・憧れの住宅街へと変わった人の流れ

鎌倉駅

明治期の横須賀線開通と「保養地・別荘地」としての再発見

鎌倉幕府が滅びたあと、しばらくの間は静かな門前町(神社やお寺の門前にある街)だった鎌倉ですが、明治時代になると再び大きな転換期を迎えます。そのきっかけとなったのが、1889年の「横須賀線」の開通と鎌倉駅の開業1)です。

これにより、東京から鎌倉まで電車でサッと行けるようになり、人の流れが劇的に変わりました。最初に注目したのは、当時の日本のリーダーたちや、お雇い外国人として来日していた医師たちです。彼らは、鎌倉の「夏は涼しく冬は暖かい」という温暖な気候と、潮風が体に良いことに気づき、ここを病気の療養や静養のための「保養地・別荘地」としてお勧めしたのです。こうして鎌倉は、東京の「奥座敷」として新しく生まれ変わることになりました。

文士や財界人に愛され、醸成された独自のコミュニティと文化

電車の開通をきっかけに、鎌倉にはたくさんの著名人が移り住むようになります。特に有名なのが「鎌倉文士(かまくらぶんし)」と呼ばれる作家たちです。川端康成や大佛次郎、夏目漱石など、教科書に載っているような文豪たちが鎌倉の静かな環境を気に入り、ここで多くの名作を執筆しました2)。

また、一流のビジネスパーソンである財界人たちも、こぞって鎌倉に豪華な別荘を建てました。彼らが集まったことで、鎌倉には単なる高級住宅街というだけでなく、知的で洗練された、どこかハイソな独自の文化が根付いていきます。この「歴史ある落ち着き」と「文化的な新しさ」のミックスが、今でも多くの人が憧れる鎌倉ブランドの基礎になっているのです。

なぜ鎌倉には歴史的な景観と自然が残されているのか

鎌倉 鶴岡八幡宮 本宮と舞殿

日本のナショナルトラスト運動の先駆けとなった「御谷(おやつ)騒動」

これほど人気が出た鎌倉ですが、昭和の中頃になると、日本全体が高度経済成長期に入り、鎌倉の緑豊かな山々にも「宅地開発」の波が押し寄せました。

その象徴ともいえるのが、1964年に起きた「御谷(おやつ)騒動」です3)。鶴岡八幡宮のすぐ裏手にある「御谷」という美しい森が、開発によって削られそうになったのです。これに対して、鎌倉の住民たちが「この歴史ある素晴らしい自然を壊してはならない!」と立ち上がりました。作家の大佛次郎さんらが中心となり、住民みんなでお金を出し合ってその土地を買い取り、開発から守り抜いたのです。これは、市民の手で貴重な自然や歴史的環境を守る「ナショナルトラスト運動」の、日本における先駆けとなりました。

古都保存法と厳しい開発制限がもたらす「変わらない価値」

この御谷騒動は、一地域の市民運動にとどまらず、国をも動かす大きなエネルギーとなりました。美しい景観を守るための法律が必要だと叫ばれ、1966年に「古都保存法(古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法)」が制定された4)のです。

この法律によって、鎌倉は京都や奈良と並び、歴史的な街並みを厳重に守るエリアに指定されました。建物の高さを制限したり、外観のデザインや色を周囲の自然に合わせたりと、非常に厳しいルールが設けられることになったのです。一見すると「自由に開発できない不便な場所」に思えるかもしれませんが、この厳しい制限こそが、数十年経っても鎌倉の美しさを損なわせない「変わらない価値」を生み出し、結果として不動産としての希少性をさらに高めることになりました。

タカマツハウスは鎌倉の土地をどう見るか

神奈川県鎌倉市の都市風景 富士見町駅

独特な地形(谷戸・傾斜地)と複雑な法規制の読み解き方

鎌倉の土地を評価する際、私たちが最も専門性を発揮するのが、この地特有のハードルを読み解く視点です。三方を山に囲まれた鎌倉には、崖地や谷戸特有の湿気対策、狭い路地での車両通行の可否、さらには掘削時に必要な「埋蔵文化財」への配慮など、事前の綿密なチェックが欠かせません。

また、エリアごとの性質を見極めることも不可欠です。平坦で不況に強い雪ノ下などの「歴史ブランド」、移住者に絶大な人気を誇る「海側ブランド」、眺望は抜群ですが高齢化への意識が必要な鎌倉山などの「高台ブランド」に大別され、地域ごとに需要が全く異なります。こうした複雑な法規制や地形リスクをプロの目でクリアしているからこそ、他にはない長期的な資産価値が保たれると考えています。

歴史的背景と現代の住環境、そのバランスの捉え方

私たちが鎌倉への居住を強くお勧めしたいのは、リモートワークを中心に趣味や丁寧な暮らしを愛する方々です。「週の半分は都心へ通勤し、在宅時は海や山で感性を磨く」というクリエイターや、自然のなかで五感を使う教育を大切にしたいファミリーにとって、これ以上ない理想の住環境が整っています。

現在の鎌倉は、都心へ直通50〜60分という利便性を持ちながら、高い建物のない街並みに「鎌倉時間」と呼ばれる心地よい空気が流れる場所です。観光期には道路が激しく渋滞するため、車よりも江ノ電や電動自転車をスマートに使いこなすような独自の二面性もあります。そうした街の個性を理解し、自分の時間を追求したい人を温かく受け入れるコミュニティがある点も、この街を高く評価している理由です。

担当者コメント

「鎌倉は、古代から海上交通の要所であり、中世には強固な要塞都市として政治の中心になり、江戸時代には観光の原型が作られたという、重厚な歴史のストーリーを持った街です。一歩外に出れば海や山の豊かな大自然があり、お家に帰れば歴史に守られた静かなプライベートが広がる。この『歴史』と『自然』が現代の暮らしと絶妙に入り混じる感覚こそが、鎌倉でしか味わえない『稀立地(まれりっち)』の本質だと考えています」

鎌倉から考える「稀立地」という視点

湘南海岸 鎌倉高校前駅踏切

鎌倉は、三方を山に囲まれた特異な地形に、武家の都としての歴史、そして近代の別荘地としての歩みが重なり、他にはない圧倒的な価値を積み上げてきました。単なる観光地や住宅街ではなく、住民たちが自ら美しい景観と自然を守り抜いてきた歴史(インフラ)こそが、現在のブランド力を支えています。歴史と地形、そして人の意志を重ねて見ることで、その街が選ばれ続けてきた理由が立体的に見えてきます。

出典・参考元

引用文献

1)三井住友トラスト不動産. 3:保養地の開発と鉄道の開通 ~ 鎌倉 | このまちアーカイブス.
https://smtrc.jp/town-archives/city/kamakura/p03.html

2) 天狼院書店. 【文豪の心は鎌倉にあり 第7回】芥川龍之介は鎌倉で青春時代を明るく過ごしていた【前編】《天狼院書店 湘南ローカル企画》.
https://tenro-in.com/bungo_in_kamakura/179418/
3) 一般社団法人フューチャーエデュケーション. 古都・鎌倉の景観を守る「御谷(おやつ)の森」でのトラスト運動とは?.
https://esd.ac/learningreport/9.html

4)東建コーポレーション. 古都保存法(コトホゾンホウ)

https://www.token.co.jp/estate/useful/archipedia/word.php?jid=00017&wid=28291&wdid=01